会社概要
社名 | 株式会社 小鯛雀鮨 鮨萬 |
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創業 | 承応2年(1653)鮮魚商開業 / 天明元年(1781)すし店開業 |
代表取締役会長 | 小倉 宏之 |
代表取締役社長 | 小倉 康宏 |
所 在 地 | 本社 〒550-0004 大阪府大阪市西区靭本町2丁目3-7 |
電 話 | TEL 06-6448-6435 / FAX 06-6448-6438 |
取引銀行 | 池田泉州銀行 本町支店 三井住友銀行 大阪本店営業部 三菱東京UFJ銀行 大阪営業部 |
従業員数 | 150 名 |
事業内容 | 【販売・お持ち帰り部門】 おすしのお持ち帰り販売・和食関連商品の販売を手掛けています 【レストラン部門】 大阪・東京など各地にすし萬・波沙鮓(ナミサス)・おすしカフェ あるにあらむを展開。にぎりすしや日本料理を提供しております。 |
店舗数 | 19店舗(2021年2月現在) |
酒類販売管理者標識
販売場の名称及び所在地 | すし萬 靭本町 本店 大阪市西区靭本町2-3-7 |
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酒類販売管理者の氏名 | 杉山智尚(スギヤマ トモヒサ) |
酒類販売管理研修受講年月日 | 令和3年6月9日 |
次回研修の受講期限 | 令和6年6月8日 |
研修実施団体名 | 日本チェーンストア協会 |
沿革
すし萬は「大阪すし」の元祖です。大阪の食文化の歴史をご覧下さい。
承応2年(1653)
魚の棚(現横堀2丁目付近)で魚屋を開業
初代 河内屋 長兵衛が福島村(現在の福島・梅田橋北詰)にて 「雀鮨」の商いをはじめる 後に浪速七郎左衛門町(現高麗橋<西詰>4丁目)の魚の棚でも魚屋と雀鮨を営む
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天明元年(1781)
初代 石本 萬助が小鯛雀鮨専門店 「すし萬」 創業
京の仙洞御所へ西宮沖、戎神社の前の海で捕れた小鯛2歳ものの 「雀鮨」を献上し、以来「禁裏付御鮨師」を世襲
明治元年(1868)
明治天皇が大阪へ行幸された時、御下命をいただき、御用を勤める
明治 5年(1871)
明治元年に引き続き、津村別院にて明治天皇の御用命をいただき、 「御膳所御用御包丁人」の看板を賜る
明治18年(1885)
5代目萬助が家業を継承し、この年屋号を「すし萬」とする
明治42年(1909)
店鋪を高麗橋5丁目に移転。6代目萬助が家業を継承する
大正 9年(1920)
小鯛雀鮨の登録商標認可
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大正15年(1926)
店鋪を高麗橋4丁目に移転。
昭和25年(1950)
社名を有限会社小鯛雀鮨鮨萬と改める
昭和58年(1983)
法人改編し、社名を株式会社小鯛雀鮨鮨萬と改める
昭和59年(1984)
14代目萬助病歿す 小倉宏之15代目萬助として、家業を継承
平成 6年(1994)
大阪市西区靫本町に本社事務部門移転
平成 8年(1996)
すし萬靫本町店開店
平成20年(2008)
株式会社すし萬フィースト・株式会社東京すし萬を 株式会社小鯛雀鮨鮨萬に合併
平成22年(2010)
本店を高麗橋より靭本町に移転
平成26年(2014)
6月1日 16代を襲名(小倉康宏)
すし萬の歴史
承応二年 創業
鮨萬(すし萬)は、承応二年(1653)に創業いたしました。
正確にはその頃魚の棚(現在横堀二丁目付近)で魚屋渡世をし、副業に雀鮨を作っておりましたが天明元年(1781)の頃、京都の宮廷へ献じるにあたり西宮沖の小鯛の二才物を用いて雀鮨を作りましたところ評判を得ましたため、雀鮨専門となりことさらに総本家小鯛雀鮨と称しました。
おそらく義太夫で名高い吉野(奈良県)の釣瓶鮓と共に、すし業のはしりではないかと思われます。
その頃大阪には摂州福島の雀鮨(毛吹草:1670年頃)が既に地方名産として挙げられていましたが当時は浪速江鮒(ボラの稚魚)が材料として使われ【魚の腹脹れて形雀に似たるを以て号之(摂陽郡談)】と記されているように、現在のものとは作り方がかなり異なるものでした。
初代河内屋長兵衛より16代・三百六十余年の間に禁裏御鮨師を世襲し、明治元年・五年には津村別院(北御堂)で明治天皇の御用命を蒙り、御膳所御用御包丁人の看板が下されております。
昭和十七年戦争による一時的な休業はございましたが、昭和二十五年四月組織を法人に改め関西圏以外の土地でもすし萬のおすしを広く皆々様に食して頂けるようになりました。
最近でも三笠宮 秋篠宮家はじめ宮内庁の御下命をいただき今日に至ります。
これからも、伝統を守りながら新しいものを取り入れ、皆様に愛される「すし萬のおすし」をお届けいたします。
戦後の14代目・石本萬助(小倉英一)
昭和二十一年九月、京都東山の無隣庵での短歌会にふらりと現れた、汚れたカーキー色の兵隊服の復員兵。
四年ぶりの復員にも関わらず、まっすぐ大阪へ向かわず京都で下車した14代目石本萬助の気持ちは、当時の主だった都市が焼け野原と化していた日本では多くの復員兵が感じる気持ちと似たものだったという。
一刻も早く故郷に帰らねばならない気持ちと、変わり果てたふるさとと直面するのを少しでも延ばしたい気持ちという矛盾する二つの気持ちを抱えて、戦禍をまぬがれた京都の古き良き日本を味わっていた復員兵たち。
そんな中に佇む14代目にとって、無隣庵でのひとときは気持ちを整理するためのものだった。
召集時は古き伝統と天明から続く店を自分の代目で失うことに諦めににた心境でいた中、焦土と化した大阪に戻り土佐堀の住友ビルの角を曲がった途端運命的なものを感じることとなる。
瓦礫野原にバラック建ての家々という無残な姿の船場の中で、西横堀川に沿った東側のひと並びだけが、細長く焼け残っていたのである。横堀一丁目、すし萬の店はその中にあった。
焼けていたらもう鮨屋はやめるつもりだったという14代目・石本萬助。
浪花名物小鯛雀鮨の伝統はそのようにして蘇ったのである。
(「老舗~美と心~」掲載文より一部抜粋)
明治時代の店頭
すし萬のおすしをデパートで
戦争が終わり、高度成長期へ。デパートでおすしが食べられる時代になる中、大阪のデパートですしの販売をはじめたのもすし萬が関西初となります。昭和五十八年には株式会社小鯛雀鮨鮨萬と組織改編を行い、14代目萬助の死により15代目萬助・小倉宏之が家業を継承し、関西のみならず東京・名古屋と多くの店舗出店を行い広く大阪すし、すし萬の味を広めてまいりました。
平成26年(2014)6月1日を以て小倉康宏が16代を襲名し、本物の味を、これからもお届けしてまいります。
昭和の匂いが色濃く残るデパートのお店。当時は着物姿の女性が多くみられました。
おすしで、デート。レストランでのお食事が一般的になってきた昭和中期の一場面です。
すし萬といえばお土産。大阪の方にとって「思い出の味」となるよう心がけております